「君と僕との関係はギブ&テイクだよね!」っていう言葉、よく聞きますよね。
お互いにお互いのことを必要としていて、支えあっているという言葉として使われることが多いと思います。
ギブアンドテイク
お互いに与え合うこと、奉仕し合うこと。譲り合い、持ちつ持たれつの関係。公平なさま。出典:実用日本語表記辞典より
私のツイッターアカウント(@komospa)では、ギブ&ギブの精神で活動しています。
なぜ、ギブ&テイクじゃなくてギブ&ギブなのか。
地味に活動を続けていく中で、賛同してくださる方も多くいらっしゃいます。詳しくその考えに至る根源を説明したことがなかったので、今回文章にしようと思います。
ギブ アンド テイクはもういらない
上記でも説明した通り、ギブ&テイクという考え方は世間一般的に広く親しまれている言葉です。
そのギブ&テイクという考え方が、いかに傲慢で、そして人間性を欠いた発言をしてしまう人間を作り出すのかということを先に説明しようと思います。
もちろんこれは私一個人の考え方であり、ギブ&テイクの関係性でうまくいっている人もいると思います。私のような考え方をする人もいるんだな、という気持ちで読んでください。
ギブ&テイクは、ギブをしたらテイクしてくれるという考えに基づいている
ギブ、「与える」ということ。
テイク、「取り入れる」ということ。
つまりギブ&テイクとは、「私はあなたに与える(ギブ)するから、取り入れてね(テイク)」ということ。
しかし世間一般的なギブ&テイクとは、「私はあなたに与えたんだから、取り入れた見返りに与えてくれるよね?これであなたと私は公平でしょう?」という意味でつかわれることが多く、
「私とあなたは公平にギブ&テイクをしあいましょうね」というニュアンスを秘めています。
人はギブをした後相手がテイクしてくれないと、裏切られたという気持ちになる
例えば、友人に「あなたは美味しいお店をいっぱい知ってそうだから、今日デートで使いたいお店を教えてくれない?」とメールが来たとします。
あなたは一生懸命いろんなシチュエーション別にお店をピックアップして、情報を友人に伝えました。「ありがとう、参考にさせてもらうよ!」と友人からの返信もあり、あなたはとてもいいことをした気分になりました。
「これだけ詳しく種類豊富に伝えたんだから、友人もきっと気に入るお店が見つかるだろう」と思い、次の日の朝Facebookを覗くと、そこには全然別のお店でデートをしている写真が載っているではありませんか!
「あんなに親切に教えてあげたのに、なんで自分が紹介した店に行ってくれなかったんだ!」
あなたはそう思うでしょう。
憤りさえ感じるかもしれません。
自分の行為を無碍にされたと裏切られた気持ちになるかもしれません。
これこそギブ&テイクの考え方なのです。
自分がギブ&テイクしたら、相手もギブ&テイクしてくれると期待する
もう一つ例をあげましょう。
あなたには、すごくネガティブな性格の友人がいたとします。
あなたはその友人の、性格はネガティブで引っ込み思案だけれど、ものすごく絵の才能があることに気づいていました。友人はその性格から、なかなか自分の絵をアピールすることができず、絵画では収入をほとんど得られないため、アルバイトをしながら生活をつないでいるような人生を送っていました。
それに引き換えあなたはすごく社交的な性格で、仕事でも営業成績抜群のエリート社員でした。
ある時、自分の仕事の顧客が「まだ無名だけれども、今後伸びる可能性がある絵画を買いたいがなかなか見つからない」と言っていたのを聞いて、あなたは真っ先に友人の顔が目に浮かびました。
「もしよかったら、自分の友人の絵を一度見てはいただけませんか?」
そこから話は急展開。
実はその顧客、無名なアーティストを支援する活動を行っていて、友人の絵がたいそう気に入り、「すぐに個展を開こう」「そんな値段じゃ安すぎる、もっともっと高い値が付く価値がある」と言い、プロモーション活動を積極的に行っていきました。
無名貧乏アーティストだった友人は、瞬く間に時代を牽引する若手鬼才アーティストとして名をとどろかせることになったのです。
一方その頃、あなたの生活には何の変化もありません。
最近友人からは、忙しいのか連絡も来なくなりました。
テレビでは「若手鬼才アーティスト」として紹介される友人の顔を見ることが増えました。
「俺が紹介してやったのに、あいつだけがいい思いをしている」
そんな風に、友人のことを否定する気持ちが芽生えてきたのです。
これがギブ&テイクをしたら、相手もギブ&テイクしてくれるという考え方です。
ギブ アンド テイク とは、価値観の押し付け
「〇〇すべき」という自己中心的な考え方のことを、私は勝手に「べき論」と呼んでいるのですが、このギブ&テイクはまさにこの「べき論」にのっとった独りよがりな考え方だと思っています。
私があなたに与えたら、あなたはお返しをするべき
たとえあなたが質問をされて、それに返答したからと言って、何を選ぶかはその人次第、受け取るかはその人次第です。また、あなたが善意のつもりで相手に与えたことの等価交換として、相手も自分に何かをお返しするべき、というのも同じことです。
人間は、自分が善意でやったことに対して相手は受け取るべきだし、お返しをするべきだと錯覚します。なぜなら自分はそうしているつもりだから。
そう、根底にあるのは「自分が行っていること」は「相手も当然行うべき」という価値観の押し付けにあります。
「自分だったらこうするのになんで?」という考え方を捨てて、相手の気持ちに寄り添う癖をつける
ここまで読むと、「じゃあ相手がお礼や謝罪を言わなかったことに対して寛容になれというのか」と思うかもしれません。しかし、私が言いたいのはそういうことではありません。
1つ目の例のレストランの友人については、「ありがとう、参考にさせてもらうよ!」とお礼を言っています。しかし、紹介してくれたレストランにはいきませんでした。
その背景として、自分が想定していた予算とは合っていなかったり、電話したけど予約でいっぱいだったということがあったかもしれません。しかし、紹介した自分としては「なんで行ってくれなかったんだ」という失望の念に駆られてしまいます。
その時あなたは「自分だったら紹介してくれたお店に行くし、例え行かなかったとしても謝罪ぐらいはするのに」と思うでしょう。
しかし、その背景には上に書いたようなことがありました。自分が紹介したレストランはそもそも友人には適していなかったのです。友人もまさか、「君の紹介してくれた場所は自分には適していなかったよ」とは言いづらいです。なんせ、紹介してくれたメールは長文で、熱量がすごくてどれだけ熱心に自分の為に書いてくれているかがわかるからです。
「自分だったら」という考え方は、相手の背景を無視した考え方です。
自分だって相手の立場になったら、どう報告しよう?と迷うかもしれませんよね。
ではどう考えるとよいかったのでしょうか。
参考までに、私だったらこう考えます。
「私にとっては素晴らしいお店だと思ったけど、友人にとっては合わなかったんだな。自分に頼らなくても他の素敵なお店を見つけられてよかったな」と素直に結果を喜びます。
もしくは、どうしても自分のお店を選んでくれなかったことに納得がいかなかったら、「昨日紹介したお店は気に入らなかったかな?お役に立てなくてごめんね」と相手が理由を話しやすい環境を提供した上でメールします。
いきなり「なんで紹介したお店に行ってくれなかったの?」と否定的な言葉で始めてはいけません。そこにも「自分だったらあなたを絶対失望させるようなことはしないのに、あなたはした」というニュアンスが含まれているからです。
人生を豊かにするのはギブ アンド ギブという考え方
では私がなぜギブ&ギブという言葉を使い始めたのか説明します。
これはアドラー心理学からヒントを得た考え方です。
「嫌われる勇気」が教えてくれた「全力でギブする」という考え方
「嫌われる勇気」は言わずと知れたアドラー心理学の入門書として有名な名著です。
この嫌われる勇気の中で、哲人はこのように言っています。
他者に貢献するからこそ、「わたしは誰かの役に立っている」と実感し、ありのままの自分を受け入れられることができる。自己受容することができる。
承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がない。
幸福とは、貢献感である。
出典:「嫌われる勇気
自己啓発の源流「アドラー」の教え」岸見一郎.古賀史健 著
私は上記の文章を読んで、このように捉えました。
「ギブする時にテイクを求めない」ことで得られる幸福感
人は誰かに「いいことをしよう」「助けてあげよう」と思うとき、無意識に承認欲求を期待しています。承認欲求は人間誰しもが持つ自然な欲求なので、それを求めること自体は仕方のない事であると、嫌われる勇気でも書かれています。
誰かにいいことをしたら「ありがとう」と言われることを期待しているし、あなたが投げたボールを「受け取ってくれる」ことを期待します。
しかしそれが自分の意図と反した場合、「してやったのに、なんなんだ?」という否定的な気持に変わります。
しかしアドラー心理学では、「承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がない」と捉えています。それはつまり、「ありがとうと言われたいから貢献する」ことには「自由がない」ということです。
言い換えれば、「ありがとうと感謝されなくても、私は他人に対していいことをした、だから私は幸福だ」ということになります。これを私は「圧倒的なギブ」と呼ぶことにしました。
ギブ アンド ギブとは 私の中での定義
冒頭で話したように、私はギブ&ギブという精神でツイッター活動を続けています。
ギブ&ギブとはどういうことか、私の中の定義としては2つあります。
圧倒的なギブを続けることによって、他人からもギブされるようになる
Twitterでの圧倒的ギブ活動を通して気づいたことは、ギブを続けていくと、自然に他人からもギブされるようになったということです。
「おめでとう」を言った相手から、「おめでとう」が返ってくる
「お大事に」を言った相手から、「お大事に」が返ってくる
「良かったね!」を言った相手から、「良かったね!」が返ってくる
私には信念があって、「お世辞を絶対に言わない」と決めています(というかお世辞が大嫌い)
圧倒的なギブに「自分の心にもない賞賛やなぐさめ」は含みません。
自分が本気で思ったことを言葉にするギブは、ちゃんと相手に伝わります。
逆に「ああこいつはビジネスライクで言ってるんだな」ということもすぐに伝わります。
「圧倒的なギブ」と「おせっかい」の線引きの難しさ
最後に、私の中でまだ課題である「おせっかい」について少し触れます。
誰かが困っていて、自分が情報を持っている時、ついついその情報を提供したくなります。
例えばその困っている相手の状況が「〇〇について困ってるので、誰か助けてください」と発信していれば、教えてあげることはギブになります。
でもこういうツイートとか、人との会話でよくありませんか?
「今日は〇〇のことで失敗した。上手にやるってなかなか難しいなあ」
こういうとき、私はすごく迷います。
「私はそれを解決する方法の一つを知っていて、相手に教えてあげたいけど、これはおせっかいなのではないか?」
「相手はその解決方法をすでに知っていて、それでも失敗したと言っているのではないか?」
「相手が欲しているのは解決法ではなく、共感なのではないか?」
こういう時、すごく迷って、「おせっかいかもしれませんが…」と前置きしてアドバイスを投げかけたりすることがあります。結局おせっかいになってしまったときもあれば、「そんな解決方法があったんですね!」と喜んでもらえる時があります。
「人の役に立っている」という貢献感は幸福につながるという気持ちを強く持って、私はギブ&ギブを広めていきたいです。
まとめ
今回は私が思うギブ&ギブについてまとめてみました。途中から、私のTwitter論のようになってしまいましたが、Twitterでも人間関係でも、この考え方を常に持つと人生が少しでも楽に感じると思います。
この記事を読んであなたがギブ&ギブの精神を引き継いでもらえるととても嬉しいです。
途中引用した「嫌われる勇気」は人生観がガラッと変わる名著ですので、ぜひ読んでみてくださいね。
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